『マザーテレサ Mother Teresa』(1910~1997) No.3 | ||
平成27年6月 | ||
この祈りの言葉は、新約聖書であまた説かれてきたイエス(キリスト)の箴言(しんげん)と同様に、非の打ちどころの無い、美しい聖なる言葉として聴こえます。 その言葉の何処に、宗教としての矛盾が視られるのでしょうか。 「世界中の同胞の為に働く私たちを、そのことにふさわしい者にしてください、 私をあなたの平和の道具としてお使い下さい」 仏教では「入我(にゅうが)‐我入(がにゅう)――我れは仏の中に入り、仏と我れと一体となる」と説き、それは神と仏の違いで、ほぼ同じ表現と意味内容をなしています。 どんな宗教でも、主体は神と仏・如来と霊神で、わたくしたち人間は従(じゅう)‐依存的な存在です。 ストレートに言えば、人間は<神・仏・霊神>に対して、あくまでも精神的な奴隷状態から抜けられない、自立自存ができない存在となります。 「私をあなたの平和の道具……」比喩などでは無く、それは宗教的真理ですが、生命的真理としては、自己矛盾‐差別的関係を表現となってしまっています。 神の言葉(ロゴス)を宗教的真理として、信仰してきたキリスト教徒――特にマザーやシスター(神父‐ファーザー・ブラザー)方には、唯一絶対神である<父な る神>は、超越的‐理想的なお姿以外、思い描くことはできません……その神の裏に秘められた、恐ろしい相貌(かお)!を、信徒の誰人も知ることはないで しょう。 言葉とイメージによって見事に<父なる神>は、聖なる絶対神としてカムフラージュされて信仰されてきました。 今では逝去して霊界に行った先祖方は、旧‐父なる神の本当の姿―――魔的な(機械妖怪化した)父なる神の存在に気付くことになりますが、人間世界のキリスト教徒は、歪められた<福音書>の真理の教えによって、ほとんどが盲‐信徒的な状態のままです。 冨岡眞光 |
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